冠婚葬祭の高度成長期、それは神前結婚式と告別式が破竹の勢いで日本中をおおいつくしていった時代である。それはまた、地域ごとに残っていた冠婚葬祭の古い風習が、列島を開発するブルドーザーの音とともに駆逐されていった過程でもあった。なんだかんだいっても、敗戦直後まで、日本の婚礼の過半数は小笠原流(を崩した)自宅結婚式だった。それが一九五〇年代以降は激減し、専門の式場やホテルで行われる、神前結婚式と披露宴をセットにした二段階方式が台頭。一九六四(昭和三九)年の東京オリンピックをあてこんで建設されたホテルも結婚式市場に参入し、一九六〇年代後半には、全挙式のうちの八〇%以上を神前結婚式が占めるまでになった。
長野県南北安曇郡では、生児が男子なら二十一日、女子なら十八日間は、産婦が別室で煮炊きをすることとしていた。火を多く焚くほどに子が丈夫になるというのは、忌みを避けていたことの説明になる。とくに男児は、氏神様に詣でるために長期間にわたって産屋で火を焚かねばならぬとしていた。そして、ウブヤアキを経てから日常生活に戻った。出産にともなう血穢が常識化していたことを示唆しており、この点は各地に共通している。ウブヤキ−オベヤキ−オボヤキともいって全国に分布していた。期日はまちまちであるが、ふつうは男児は生後二十一日目、女児は二十二日目で、この日に初宮参りをした。群馬県多野郡では、男児二十九日目、女児三十九日目にお参りしていた。山梨県西山梨郡でも女児三十一日目、男児三十三日目に姑や産婦の実母が赤子を盛装させ、抱いてウブスナに詣でていた。この日、里方に行って泊るのを例としていたという。
まず、部屋はかならずノックする。この回数、正式には3回。これは、「入ってよろしいでしょうか」という合図に対して、相手が応えるための猶予という意味合いがある。お茶の入った茶碗と茶托は別にしてお盆にのせ、両手で運ぶこと。お盆をサイドテーブルが大きなテーブルの端に仮置きし、茶托に茶碗をのせて来客の上座のほうから出す。茶托に木目がある場合は横向きになるように置くのが正式。基本は一人一人の右後方から「どうぞ」と声をかけ、相手の右奥に置くが、書類が広がっていたらあいているところに置けばよく、すでに打ち合わせが本題に入っているなら、じゃまにならないよう、黙ってそっと出せばよい。入退室時の「失礼いたします」も同様に、声を出さないほうがいいこともある。マナーに縛られず、タイミングと空気を読む気配りも大事だ。